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日本の印刷は疫病対策から?
印刷の概念は中国での印鑑の利用に始まり、印刷物と呼べるものは、その少し後の時代、7 世紀後半くらいに始まる、木に文字を彫りインクを塗って紙に転写するという、木版印刷の初期段階的なものだという説があります。でも、実際に印刷物が作られたのは、日本が初めてという記録が残されています。
称徳天皇の命により作られた世界初の印刷物
770年、当時の首都である奈良で、称徳天皇の命により世界初とされる印刷物が作られました。称徳天皇は史上6人目の女帝であり、749年から758年までは孝謙天皇として、765年から770年までは称徳天皇として国を治めました。これ以降は江戸時代初期に即位した明正天皇まで、850年以上も女帝が立てられることはありませんでした。
その目的は、疫病対策
称徳天皇は、父の聖武天皇の路線を継承し、仏教を重視した政策を盛んに推し進めました。天然痘が大流行したり、大地震が起きたりの国難を乗り切るために多くの僧侶を集め、策を見いだすよう命じました。この難問に挑んだ僧侶達が出した答えは、木造の小さな三重の塔を百万基作り、それぞれに「無垢浄光陀羅尼経(むくじょうこうだらにきょう)」の写本を奉納するというものでした。
百万枚の陀羅尼写本は印刷で
当時、経典を作る方法としては一文字ずつ書き写す、写本が一般的でした。しかし、称徳天皇のブレインである吉備真備(きびのまきび)は、木版を用いて紙に文字を転写する技術を、中国で見て知っていました。そこで、教本の文字を板に彫りつけ紙に印刷する方法を提案しました。
百万塔陀羅尼の木版は、幅5センチ程で、文字は凸状に彫られました。紙の長さは15〜50センチで、虫食いを防止するために黄檗(キハダ)で染められたものが用いられました。
百万枚という大量の印刷物を一つの木版で印刷することは、版の耐久性から考えて不可能です。そのため、複数の木版を作ったか、金属や石を用いたのではないかという説もあります。
続日本紀にも記された国家事業
陀羅尼の印刷と百万基の塔の制作という国家事業は、「続日本紀(しょくにほんぎ)」に記録されており、そこには、770年の完成まで5年8ヵ月を費やし、157名の技術者が関わったと記されています。写本を収めた三重の塔は、法隆寺や東大寺など10か所の寺の特別の堂に収められました。
後にこの塔は百万塔、陀羅尼の写本は百万塔陀羅尼とも呼ばれるようになりました。百万塔陀羅尼は、現存する中では印刷された年代が明確な世界最古の印刷物、百万塔は法隆寺に現在も4万数千個が保存されています。
まとめ
いかがでしたか?
現存する最古の印刷物が、日本で作られていたとは、意外な事実ではなかったでしょうか?印刷と日本の文化には、切っても切れない関係があるのかもしれませんね。